いちゃもんスローライフ

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日記

日本語Ⅱ

2018/01/28

年末に今までになく障子の張り替えを頑張った。猫に沢山破られたこともあって、張り替えられた綺麗な仕上がりが長く維持できるとは期待できない。久しぶりの障子の美しさに感動して一応の満足が得られたわけだが、愛猫の引っ掻き傷や戯れゆえの破れ障子に無念さや怒りで毒づくことのないように予め布石を敷いているのだ。何十枚もの障子張りはきつかったが「障子ごときでくよくよするな、ニャンコが可愛いなら許してやりなよ」という声で自分を戒めている。子育てや介護を思い出す瞬間でもある。さて、白い雪見障子を何となく見ていた時のこと「影絵を切って張り付けたら素敵だろうな」と想像していた。前から時々考えたことでもある。確かに素敵かもしれない、でも日本の文化ではない感覚なのかも知れないと思った。文様や切り絵を一度張ったならば真っ白な障子紙にはいつもそのカタチが浮き彫りになって印象づけられる。同じ絵柄の環境となるわけだ。この頃感じることのなかに、人は内的変化に応じて外的環境も替えていきたいのだということだ。障子の紙は安価なものも高価なものもあるが捨てても惜しくないような気軽さも魅力の一つだと感じる。ガラスとは違ってやわらかな(軟らか/和か/柔か)印象を醸しだす。カタチや色、または光の強弱が毎度変化する環境をつくりだす。

日本語は曖昧さが魅力だ。暈すことは曖昧にすることに似ている。一つのはっきりした言葉(日本語よりも外国語)は狭い概念、規定したい事項を示すのには適している。けれども固定化されるのだからコントロールされやすい。また言葉を発し使っている筈の本人が逆にその枠に嵌められてしまうことになる。なぜか障子と日本語がリンクしている。障子に影絵などを貼ったら絵が前面に出てきて強調される。ぼんやりと何かを映すことに風情があり想像力を持たせる。はっきりした映像は視覚を優位にさせることとなり他の感覚を抑えてしまう。障子は貴重な日本の文化だと思う。   中西さんがおっしゃるには(正確ではないが私の私見)例えば平安時代の文学には木戸を揺らす音を耳にすれば「懐かしいあの人が私を訪ねてきたのかも知れない」「何か私に伝えたいことがあるのかな」とか、障子を横切った影を目にすれば「誰かが外に誘っているのかな」と心がときめいたり考えを深めるきっかけになる、というような情緒的感性が文学の中に随所に現れて多次元的に物事を捉えるのが普通になっているらしかった。

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