いちゃもんスローライフ

地球の声を聞きませんか

未分類

定義不能

2020/06/03

共通の概念をもってしても人々の間で共通認識を持てる気がしないがどうなのだろうか。目の前で「何々は……ですよ」と言い換え確認し定義したとして果たして円滑な意思疎通が為されるのか。付き合うにも大雑把でその時々が無難に過ぎればそれでよい、というのであれば通じてもそうでなくても構わないのでしょう。子供の時から「どうして通じないのだろう」と悩んでしまった私は他に同様の悩みをもつ人物に会わない限りその問題意識は「個人的、独自的なもの」だった。かなり孤独だった。使う言葉の曖昧さが誤解を招いているのか、定義されてないからか、年代が違えば同じ概念で統一するのは難しいのか等々考えたものだった。「分かり合えるはずだ、通じ合えなくちゃ嫌だ」という願いが真相究明に拍車をかけた。随分と長い間傾けてきたような気がする。例えば「結婚」は定義しやすい方かもしれない。配偶者間で確認したいだけ確認して双方の合意のもとに決めれば(契約する)よいからだ。結婚制度というからには決まり事で定型化されたもので公認されるわけなので社会的規範を保たれなければならないといった縛りが伴う事となる。ところが一般的には好きなもの同士が結婚するのだから「関白宣言」みたいな決まり事を互いの合意で了解済みで一緒になるのだろうと考える。「愛を確保」したいばかりに「夫や妻を確保」するといったところか。ところが生き物は変化する。体形も変わるし、家族構成も子供が生まれたり、親との同居もあれば増える。失業するかも知れないし、病気になるかもしれない。そうでなくても心は振り子の様の揺れ動くものだ。自分の気持ちさえ分からず、結婚したいから「好きだ」と言ったのかも知れないし、相手を隷属させるために「あなたなしでは生きられない」と利用しようと企むことを表現するにはえげつないので美しく甘い言葉で振舞うという知恵を使ったに過ぎないのかも知れない。しかし人はものではないので所有物扱いをされて喜ぶものはいない。抽象度の高いものほど定義しにくく決めれるものではないと思う。特に「愛」は難しい。「愛が芽生える」などは芽生えてからしか自覚できないから種を発芽させるよりも見当がつかない。しかも愛の感受性の低い人は愛されていても自然の無償の愛なんてものも気づきもしないで過ぎていく。そうなると愛をプールできると勘違いしてしまう。深く考えていけばいくほど一つのことに気が付いてくる。個人の様々な価値観の根底には揺るぎない存在があり愛をわかる種が仕組まれているという事だ。発芽は無条件には起きない。人の種も同様の条件を要する。在るには在るがあたかも無いかのような人もいる。だから結果を想定して努力するとか準備だとか行動計画のような手法がありそうで無いのだ。だから「人生の中で結婚程リスクの高いものはない」と語る人も出てくるのではないかと思う。自分も「愛」という言葉を使っているが本当は語れるものでもないと知っている。定義不能なもので(言葉≒マインド)エゴの融け落ちた無意識の中の自然発生で生じたようなものを「あった」「これが」と気付くものだからだ。息子たちから「愛情の情は要らないものなんだよ」と反発されてきた意味が少しずつ分かってきている。「の・ように振舞ったって所詮エゴはエゴ」などと私の悟りの時を信じて訴え続けてくれたのかも知れないと気が付き始めている。

-未分類