いちゃもんスローライフ

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在ること Ⅲ

ひとりの人間として生きるならば、その人間というのは社会的自己ではなくただ在る私のことで肩書や地位、立場などを除外した意識が常に保たれた状態となる。自分だったら夫からみて妻、子供からは母親、職業はセラピスト、親からは娘という立場になる。でもそのただ在る私に付いた立場を示す名称は自分以外からの呼び名でもある。他人を意識せずに自分を見るときには関係性の上の名称や職業名をもとに見たり考えたりはしない。何故なら自分の世界は自分だけのもので、自分が描いたシナリオ、価値観などが反映されている唯一のものだからだ。いくら仲の良い夫や気の合う友人でも同じ世界には生きてはいない。だからこそ相手を尊重できるのではないかと思う。それぞれの世界の人だから、こちらの世界の価値観で見つめて(色眼鏡の様になる)は当たらないことだろうから、と謙虚になる。その所を理解している人は決して自分の思いや価値観を押し付けたりはしない。ただ気が合えば共有することも少なくない。ところが現実は臨場感の伴う間柄になると(空気が同じ的に)みんな同じだから、同じ世界に住む同志に異論はないよな、のような同調圧力をかけてくる。日本は村社会だと揶揄されるのもこのためだろう。長い年月をかけて刷り込まれ、常識となってしまった感がある。さて、夫を亡くした母は当初は元気だったが次第に変わっていった。妻という立場、嫁という立場、二人の娘の母親という立場などは過去のものと考えても良いものだと思う。それから解放されるなら羨ましい限りだ。しかしそうはならなかった。それらの立場でどれだけ苦労したか、犠牲になって頑張ってきたかを振り返ると無念な思いに駆られるらしかった。誰に言われなくても「私ってよく生きてきたね、病気もならずに元気でこれたね」などと自分を自分で認めて余裕の老後を送ればよいだけだった。父に評価されたのは娘のうち一人で自分は愛されてなかったのではないか、嫁として使われただけだったのではないかと裏切られたような(つまり犠牲者の意識)気持ちに覆われて収まりがつかなくなった状態のようだ。自分の最大の理解者は他の人の訳がないではないかと思っているが、もし自己評価よりも、もっと大きく評価されたらそれはまた嬉しいことだ。しかし他者評価に左右されることは所詮空しいことだと実感しないかぎり無理なのかもしれない。むしろ人生は社会的評価で決まると本気で考え、そのために努力し、失格者とならぬように並外れた体力と意志力で頑張ってきた母親であった。女性は社会的に立場が弱くてみじめな思いをしてきたことは理解する。けれども男も戦争などに容赦なく駆り出されてどれ程多くの命を亡くしてきただろうか。犠牲は計り知れない。それでも「自分は犠牲になった」という想念(つまりは仮想現実)がある限り「被害者意識」は「加害者」を恨むことになる。恨んでいる状態は責任転嫁の枠から出ることができない。母は自分を苦労させた多くを恨んでいる。家族や家系のために自分の意志で生きてきたという自覚をもち純粋に傾けてきたのなら、自分以外の人のためにこんなに苦労したのにと後悔には至らなない。負けず嫌いの母は妻、嫁、親などそれぞれで勝利者になりたかったのではないかと思う。それを人生の目標にしていたかも知れない。だから社会的評価が全てになってしまっていたという所以である。愛情も豊かで母を嫌う人はあまりいなかった。多くに有難がられていただけに残念な気持ちになる。もし素の自分のねがいに耳を傾けたなら「他人は他人、私は私、私が満足しなければ駄目なの」と聞こえてくるのではないかと思う。それこそが誰もが抱く共通の本音なのではないかと私は思っている。すべてではないが本音を抑圧し無きものとして暮らしてきた母の状態をみればやはり自己愛の欠如という事になっている。ただし本音で生きたなら、死んでしまうしかない現実だったなと、私もわかっている、そのようなこの世だと。

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