いちゃもんスローライフ

地球の声を聞きませんか

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加味

2020/02/15

先回はおんなじが好き、のような文章を書いたが相手の中に自分の要素を発見して喜ぶという感じ方は大勢の人と同じで安心するというような共同幻想の中での横のつながりに親しみを覚えるといったものではない。自分の世界はあくまでも自分独自の世界なのだが、学校などの集団生活を続けてくるうちに同じ世界に住んでいると幻想を抱いてしまうのもでこの勘違いが下手をすれば死ぬまで続いてしまうのかも知れない。いつでも自分(自分をこれから私という)は大勢を見ているわけだから同次元にはいない。見られる位置、もしくは観察される側の世界には視点がないのが当たり前なのに見られる空間から分析したり考えたりしてしまっている時点で私の視点を外在側に同化させてしまうという過ちを犯してしまう。集団の中に身を置いていても独立した世界を各々が持っているという事を知らずにいるか無視しているのが多数派の態度である。だから大勢と同じではないものを見つけると違和感を覚えて同じでなければ気が済まなくなるらしい。個性の違いという理由で勝手なことはさせるものか(自分も受容されなくても我慢してるのだからあなたも同様にそうしなさいという気持ち?と排他性)という怨念のような情によって心が乱され、されたことを他人にもするというのがいじめではないかと思う。私の世界をもってそれに酔いしれているなどといったら異端児扱いされるのが普通になってしまっている。管理しようとする多数派には独自性は邪魔なのだ。私って、人生ってなに?などと問いかければ困った人というレッテルを貼られるだろう。考えてはいけない、受験に勝てないぞ、生きにくくなるだけだと中学の頃に私も担任から言われたことがあった。何かを究明しようとしたり、本当のことを分かろうとするならば(多数派の立ち位置に私の視点をを置かずにいる)多数派の安寧を捨てなければならない。生きにくさは常に付きまとうが私の本音を覆い隠して生きるほうが辛くより苦しかった。それでも無難さに掠め取られずによく生き延びてきたものだとおもう。自分の子供たちも同様の生き辛さに喘いでいるのを見ると何とも切なく励ましようもない心境だ。特に芸術系の仕事をしていくには産業化というか商業ベースにのせることが容易ではなく困難が伴うだろうことは想像できる。感受性豊かな感性を保ちつつ働くことができてなお食べていければ理想的なのだが現実は厳しい。どんな世界に生きていきたいかは個人の自由なのだが気に入った自分を保って生きれればそれでいいと思う。いま私の楽しみは色々な人との出会いで、何が嬉しいかといえば優れたところをみな持っているのでそれを見つけたときに惚れ惚れと感動することだ。今の私がいるところから離れていく状態を感じれる時ほどわくわくするものはない。いのちの躍動感ともいえるもので相手の優れたところ、自分にはない秀でたところなどを感じれた時ほど今の私の次元をやすやすと超えれる(離れていける)快感は他にはない。その時々で自己完結はしていたが良いものを発見できれば即座にいまの自分に未練を持つことなく(捨てて)変化の喜びに夢中になれる。様々な出会いによって織物が色々な要素で織りなされ加味された趣を増し加えられていくような楽しさがそこにある。その(織物)作品の完成は有るようでなくその先どうなるのかは誰にも分らない。でもその作品の一番のファンは私で、どういう風合いに変化したとしても大丈夫な気がする。それは究極の自己満足の世界ともいえるかも知れない。この前みた夢に「かみ、加味、神」という文字が出てきた。初めて目にした時のようにその映像をなぞる様に読んだ。加えられていく味の豊かさが人生の妙味なの?そのために生きてるの?とつぶやいていた夢だった。

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