いちゃもんスローライフ

地球の声を聞きませんか

日記

おんなじ

2020/01/15

子供のために読み聞かせをしていた。とは言っても随分前のことで、本を開いて絵を見せながら読んで聞かせるというのがいいらしいと信じて日課のように子供が喜んでいるうちは何回でもそれを繰り返したものだった。その中に「おんなじ おんなじ」というのがあった。ぶうとぴょんというぶたさんがいて靴や洋服などがおんなじだと気が付いて喜んでいるという単純なものだった。共通のものを見つけたときに嬉しくなるという心理を絵と文章で繰り返している絵本だったと記憶している。そのまま受け取れば人間って自分と似た人に会ったり、共通の内容、所有物などを持っていると喜ぶものなんだなと意識しなければ結構忘れている感覚ではないかと思った。でも何が気になるのか、そのあとも思い出すことがあった。同じとか似ているという事を認識できたときに喜んでいるが、予め意図して同じ形(見た目や設定)にして示し合わせたならばそれでも嬉しいものなのかと想像したり(厳密にいえば無作為以外は不自然なものになると思うからそれ程面白くもないかなとか)また私とあなたがおんなじで嬉しいのは片一方だけ、となっても嬉しさはあるから自分の嬉しさの元が基本自分にあるのではないかなどと考えたりした。もちろん双方が同時に喜ぶこともあってどっちの喜びなのか判別がつかない境地もあるが…などとしつこく追い求めていくのだった。喜びはどこから来るのかなという疑問が頭をよぎると(これにずっと拘っていた)絵本が思い浮かんだような気がする。結論として喜びはやはり既に自分の内にあったのだとわかる。自分以外の有形無形の対象の中に自分の内面にある要素(が映し出される)を見出した時に(認識=照合作用と考える)嬉しく(喜びを認識する)なって(映してくれた?鏡のような?)対象にも好意的な気持ちが芽生えてくるというのがおんなじで喜ぶという流れなのかなと感じている。気が合うとも表現される。しかしそれにも前提条件があり、自分というものが嫌いであっては対象のなかに自分をみて喜べるはずはないと思っている。自分が好きだから(自己肯定できて)喜べるし嬉しくなるのではないかと感じる。体験からも自分のことが嫌いで仕方がないときがあったが、その頃は気難しい性格が露わになっていて、まるで恨み深い情念が渦巻いている感じが常だった。誰かを大切にしようとか、喜ばせたいという気もおきなかったし要求する気持ちの方が大きくて、頑張ったとしても義務感から無理やり奮い立たせて生きるのが精一杯だったような気がする。過去のことはまだ自分の中に残っているが今では当時の重苦しさは無くなって、よく乗り越えてこれたなと労わりのことばをかけてあげたい気持ちになっている。

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