いちゃもんスローライフ

地球の声を聞きませんか

日記

おんなじ

2020/04/21

子供のために読み聞かせをしていた。とは言っても随分前のことで、本を開いて絵を見せながら読んで聞かせるというのがいいらしいと信じていた私は日課のように何回でもそれを繰り返したものだった。(子供が喜んでいるうちは)その中に「おんなじ おんなじ」というのがあった。ぶうとぴょんというぶたさんがいて靴や洋服などがおんなじだと気が付いて喜んでいるという単純なものだった。共通のものを見つけたときに嬉しくなるという心理(?)を絵と文章で繰り返している絵本だったと記憶している。人間って自分と似た人に会ったり、共通の内容、所有物などを持っていると喜ぶものなんだなと受け取っていた。それは意識しなければ結構忘れている感覚ではないかと思った。自分でも良くわからないのだが読み聞かせを終えてもその絵本をふと思い出すことがあって、最近も浮かんだので色々考えていた。同じとか似ているという事を認識できたときに喜んでいるが、予め意図して同じ形(見た目や設定)にして示し合わせたならばそれでも嬉しいものなのかと考えてみた。(作為的なものはそれ程面白くもないかな、無作為だからこそ驚きがあるのかな、とか)また私とあなたがおんなじで嬉しいのは片一方だけ、となっても喜びがあることを考えれば、自分の嬉しさの元が基本自分にあるのではないかなどと考えたりした。もちろん双方が同時に喜ぶこともあってどっちの喜びなのか判別がつかない境地もあるが…などとしつこく追い求めていくのだった。喜びはどこから来るのかなという疑問が頭をよぎったと同時に(これにずっと拘っていて分かりたい気持ちが募っていた)絵本が思い浮かんだような気がする。喜びはやはり既に自分の内にあったという結論に至った。自分以外の有形無形の対象の中に自分の内面にある要素(が映し出される)を見出した時に(認識=照合作用と考える)嬉しく(喜びを認識する)なって(映してくれた?鏡のような?)対象にも好意的な気持ちが芽生えてくるというのがおんなじで喜ぶという流れなのかなと感じている。気が合うとも表現される。しかしそれにも前提条件がありそうだ。自分というものが嫌いであっては対象のなかに自分をみて喜べるはずはないと思っている。自分が好きだから(自己肯定できるとか自己愛があるとか)喜べるし嬉しくなるのではないかと感じる。体験からも自分のことが嫌いで仕方がないときがあったがその頃は不平不満と被害者意識などが渦巻いていたと思う。気難しい性格が露わになっていて、まるで恨み深い情念がいつも自分を取り巻いて苦しかったので、誰かを大切にしようとか、喜ばせたいという気もおきなかった。むしろ要求する気持ちの方が大きくて、頑張ったとしても義務感から無理やり奮い立たせて生きるのが精一杯だったような気がする。過去のことは記憶として自分の中に残っているが今では当時の重苦しさは無くなって(エネルギーは抜けて)、よく乗り越えてここまでこれたなと自分に労わりのことばをかけてあげたい気持ちになっている。

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