いちゃもんスローライフ

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日記

あそぶ

やまと言葉の「あそぶ」とはこう説明される言葉である。日常的な生活から心身を解放し、別天地に身をゆだねる意。神事に端を発し、それに伴う音楽・舞踊や遊楽などを含む。(『広辞苑』)   永安末期の歌謡集『梁塵秘抄』より                            遊びをせんとやうまれけん、戯れせんとやうまれけん。                  遊ぶ子供の声聞けば我が身さえこそゆるがるれ。                 人は遊びをしようと、戯れるようと生まれてきたものか。あそぶ声をきき、そのあり方から自分が失っているある生き方の本来のようなものが想起されて心が動かされているというもの。  遊ぶ子供は何のためとか意味を問い、考えるという余計な事はせずに、ただ無邪気に夢中に、現にある自分を十全に楽しみ生きている。それは聖なる行為と類似するといい「神事に端を発し」ているとされる。ニーチェにおいても、遊ぶ子供のあり方にこそ、生きる力のみなぎった、もっとも高邁な精神があるといったという。以上のような内容を読んでいると幼少期に遊んでいる自分の姿が浮かんでくる。なぜか自分の姿は正面の目線を向けた方向の映像はない。横や後ろ姿ばかりで、少し離れた場所からの観察眼のように自分が自分を客観的にみている夢の中で見る自分の感じになっている。(どうして追憶のシーンはこの構図なのかな?)それは野菜を刻んで料理というか練習していて失敗したら捨てたり、ホットケーキのようなものを焼いて食べてみたり、不味ければ犬にあげたりしていた。ジャガイモを剥いてマッシュしたり、くず野菜を用いて金平ごぼうを作るなど飯台に放置したら家族が食べたのには驚いた。嬉しくまた作ってみようというきっかけになった。実験や練習のつもりでやっていた事がやがて家事に移っていったのだった。これがいやいや強要されていたならば作ってあげて喜ばれて満足するという心情は育っていなかったかも知れない。結果を問われない緩さ(ゆるさ-許さ?)はやさしく、自由で面白い。そもそも失敗も成功も、はかる物差しも眼差しもないので自己陶酔、自己満足は自己完結へとつながっていくのだと感じる。子供ながらに「余計な手だし、口だしは無用、あたしが良ければいいのよ、邪魔しないで」と聖域への干渉を許さない意思がすでにあったように思う。もし誰かが描いたストーリーの中に誘導されてあそんでもいいよ、と言わても「それって遊ぶじゃなくて演じろ(望むようにふるまえ)、を暗に強いてるんじゃないの?」と私ならいちゃもんをつけたくなる。「あそぶ」とは実は大切なテーマなような気がしている。これからも連想されるままに深めていきたい。

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